氷河の人魚
わたし達の住む王国は空に『光』を頂き、時折煌めく虹の色は空を生きているかのように波打たせ泳がせます。しかしわたし達の生活に概念的に『天』と呼ばれる空はあまり関わりがなく、むしろ隆起する岩塊が様々な生命を擁し生きる植物が、この王国──この世界の全てなのです。
年に一度、世界が急激に静まり、身が縮み血の流れが停滞してしまうような時期があります。いわゆる『冬』の季節です。『冬』は世界が停滞する季節です。この冬は毎年わたし達にとってまさに危機的状況で、その足音を聞くたびに幾つもの命はがむしゃらに駆け足を始め少しでも温かい『南』の方へ、一時的に退避する算段を取ります。しかしそれは、わたしが生まれる前までの話でした。
『大氷河期』が、訪れるようになったのです。
冬は今までの倍以上の猛威を振るい、今までの三倍の歳月に渡って世界を凍り付かせるようになりました。
これまでに全くなかったことでした。冬に生活を脅かされることはあっても、命を奪われることはありませんでした。皆が新たなる脅威に『南』へひしめき合いながら急ぎ、しかしその先にすら魔手を伸ばした冬の抱擁はわたし達の意気を挫き、深く鋭い絶望が心を覆うのでした。
しかしそんなわたし達に、希望の光はある日唐突に射し込みました。文字通り、『希望の光』だったのです。
今までわたし達は『空』とは無関係な生活を送っていました。ただ空の下で呼吸をし食事をし命をまっとうする。それだけで良かったからです。ですが、わたし達の希望の光となったのは、その空でした。
突然空に──穴が空きました。途端世界に温もりに満たされたひとすじの光が射し込み、束の間冬の厳しさからわたし達を守ってくれました。その時、仲間の一人がその穴のもとまで舞い上がり外を覗き込もうとすると、そのまま穴に吸い込まれ二度と帰ってくることはありませんでした。
有り体に言って、不気味な現象でした。わたし達が呆然とその光景を見送ると、いつしか穴は閉ざされていました。光は再び灰色の停滞に遮断され、立ち止まるわたし達に再び冬は牙を剥きました。
もう正気ではいられなかった。
わたし達の身体では、環境では、もう限界である。
そんな気持ちが、皆の、わたし自身の心さえも蝕んだのだと思います。誰かがしばらくしてから言った、『あの光は我々に神様が用意した脱出する機会だったのだ』という言葉は甘美な響きで、疑う余地すらなかったのでした。それからわたし達は、再び『神の出現』を待ち焦がれました。どうか、どうか、わたくし共をお救いください。再びわたくし共に機会をお与え下さい。
もはや冬へ抵抗する気力を失っていたわたし達は、毎日毎日祈り続けました。
そして、祈りは届き再び天は光を射しました。
我先にとわたし達は穴へ急ぎました。冬の脱出を夢見て。この閉ざされた世界の向こうに広がる『春』の存在を信じて。
最初に穴へ到達したのは、わたしでした。光が目の前にありました。真っ白な、この世界を閉ざす氷よりもなお白き光が、わたしの視界を埋め尽くしました。
しかしそれは束の間の幻想でした。誰かがわたしを突き飛ばし、脱出の機会を奪いました。わたしの肌には傷が刻まれ、血が撒き散らされました。誰かの遠い激昂を聞き、穴に集う仲間達が傷付け合い殺し合っています。おびただしい量の血が飛び散り狂った叫びが響き渡り幾つもの死体が空虚な冬の世界に押し戻されました。
わたしはその光景を見ながら、間違いに気付きました。ああ──わたしが、そもそもわたしがあんな小さな穴から這い出るなど不可能なのだ。わたしはこの冬の世界に閉ざされ死ぬ運命なのだ。わたしは皆とは違うのだから。わたしは皆とは違って生まれてきてしまったのだから。わたしは人魚なのだから。
仲間の死骸が水中に幾つも漂い、赤いプランクトンがユラユラと揺れていました。一体幾つの仲間があの穴の向こうへ引き上げられたのだろう。そう思いながら、わたしはただ分厚い氷に閉ざされた水面の下、流れに身を委ねていました。
どれぐらいの時が経過したのか。未だ続く冬の大河の底、わたしはふと白い水面を見上げると、いつの間にかそこには穴が空いていました。やはり到底わたしには潜り抜けられそうにない小さな穴。そこから、何か細い糸のようなものが先端に重りを付けて垂れ下がっていました。仲間達のことごとくがあれに掴まり、冬を脱出したのです。だけれど、わたしには不可能なのでした。わたしには、ここで死ぬしかなかったのです。
わたしは沈黙を保ちまんじりともせず己が身を掻き抱き、鋭き静寂に身を晒し続けました。
しかし穴はいつまで経っても塞がる様子はなく、垂らされた糸も引き上げられる気配がありません。
呼んでいる。
そんな気がしました。
そう思えば思うほど、穴が、糸が、わたしに語り掛けているような気がしました。早く来い、早く来い、と。
わたしは周りを見ました。プランクトンが漂っている以外は濃紺の王国にはもう、他に誰もいません。すでにこの河には、わたし一人しか残っていませんでした。
あるいはあれは、わたしを確実なる、そして安穏たる死へ繋げる穴なのかもしれませんでした。
どっちでもいい。
この苦しみから解放されるのなら、わたしはどちらでもいいと思いました。
穴に向かって水を尾で打ち泳ぎ始めました。生み出される水泡が身を包み上昇すると、天空の氷にぶつかり横に広がります。わたしは泡を追い掛け、尾びれを動かし凍結寸前の水中を蹴り続けました。
そして、糸に辿り着きます。見上げる穴の向こうには、真っ白な光が広がっていました。もちろん穴はわたしが入れるほど大きくありません。首を通過して、肩でつかえてしまうことでしょう。しかしわたしは糸にしがみつきました。どこへなりと導くがいい、と呪詛にも似た思いを握りしめる手に込めました。
すると、わたしは凄まじい力によって引き上げられました。目をぐいと瞑ります。穴に首が入り、不思議なことに肩はつかえず身体は「すぽん」、と音がしそうなぐらいに綺麗に通過しました。穴を抜け出るとそこには水がありませんでした。ばしゃあっ、とわたしの身体から染みついた大量の水分が落ちます。
目を開くと、先端に糸をくくりつけた棒を持った人間の男がいました。腰を抜かして、わたしのことを見ていました。
「こ、こりゃあたまげた……!!」
男は尻餅をついた状態のまま、後ろ手でそのまま後退していきました。分厚い真っ白な氷の上。男のうろたえた姿が氷の表面にぼんやりと映っています。男は首を後ろに向け、離れた距離で同じく棒を持った仲間に「おーい!!」と声を掛けました。
「でっけえマグロが釣れたぞ!!」
男の仲間は棒を足下に置くと、こちらに駆け寄ってきました。まだ子供のようでした。男の子です。男の子は、わたしの身体を両手で抱き上げました。
「きゃっ……」
「うっわ、すっげー重ぇ! くっ……くくっ……、持ってられない……!」
「バカオメェ、そっと下ろせよ! ……しかしそれにしてもこりゃー、大物だ! ミト! 今日はご馳走だぞ! 母ぁちゃん喜ぶぞぉ!!」
「うっっっっっわぁぁぁぁぁぁ────────い!!」
「やっぱアレだな。今日もチミっこいのしか釣れなかったらもうこの氷河は諦めようと思ったんだがな。引き際が肝心、ってこのコトを言うんだな! ガハハハハハ!」
「違うと思うよ、とーちゃん。がははははは!」
マグロ。
大物。
ご馳走。
一体この人間達は何を言っているのだろう。わたしが呆然とした目で二人を見ていると、男はわたしを無理矢理小さな箱に押し込んでバタンと蓋を閉めました。……寒い。
しばらくするとわたしは箱から出され、何かの板の上に叩き付けられました。「痛い!」と言っても男はにやにや笑みを浮かべるだけで、取り合ってすらくれませんでした。
男が次の瞬間刃物を取り出し身体に押し付けてきたとき、わたしは悟りました。あの穴に引き上げられた皆は、この男に殺害されたのだと。
「待ってろミト! ハルカ! とーちゃんが豪快に捌いてやっからなぁ! ガハハハハハ!」
皆、穴の向こうに未来があると、信じていたのに。
男の刃物が、窓から入り込む薄い太陽の光を弾きました。男の子の「まぁーだぁー?」という声が響き、「あなた無理しないでよ」という澄んだ女の声が響きます。
冬から脱出出来ると信じていたのに。
皆、信じていたのに、
春になった。
色も匂いも濃い緑の奥。陽の光は枝葉の隙間を通り抜け滴る露のように草の繁茂する地面に落ちている。木々の影がざわめき、花の匂いがする風が森を爽やかに吹き抜ける。右手を流れる幅の狭い川は嘘のように澄み、透き通っていて、光の染みが流れていくようだった。
森の奥に進むにつれ、川幅は狭くなり緑の量も増していく。木の背丈も高くなり、それにしがみつく蔦と苔は年季の入りようを実感させる。
古代文明の名残も、静かに息をしていた。
何かの建造物のようである。入口は石造りで、空気の出入りが叶っていたはずの隙間は今や苔でびっしり塞がれ、扉は堅牢な封印がなされている。入口両脇にはケルベロスの如き狼の姿をした石像の門番がいて、それぞれの足下には未だに解読されていない文字の彫られた石版が台座として置かれている。
川はその遺跡を避けるように軽く迂回しており、Sの字を描いて緑の闇へ続いている。
探検家の足取りでこれまで歩を進めていたハルカは、ふうと息をつくと比較的苔の少ない建物側部の川に向かって張り出した石段に腰掛けた。背負ったリュックから水筒を取り出して、カップに清流から汲み上げた水を注ぎ一気に飲む。中身の水滴を払うと、蓋を閉め、ズボンの裾をまくり上げ、靴を脱いだ。
両足を川面に浸ける。ぱしゃぱしゃと煌めく水を蹴り上げ、時折底に見える魚の影にくすりと笑った。
「お一人ですか?」
不意に聞こえた声に、ハルカは振り向いた。
そこには自分と同じ探検家の服装をした若い男が立っていた。髭の生えた顎先から汗が滴り落ちている。ハルカは微笑みかけて、
「はい。探検が趣味でして、こうしてときどきここまで歩いてくるんです」
「はあ、それは奇遇で。実は私も趣味で探検していまして。ここに来るのは初めてですが」
怪鳥の叫び声。どこかで枝が揺れ、葉が散った。
「いい所ですね。ここは。危険が全くないのがちと難ですが」
ハルカはきょとんとする。
「危険はない方がいいのでは?」
「それじゃあ探検のし甲斐がない。密林の遺跡! 扉を守る石の守護神! 現れた美しき女性との甘いロマンス! そして──アドベンチャー&デンジャー……」
身振り手振りで大袈裟に言葉を表現してみせる男に、ハルカは再び微笑んだ。
「それって──美しき女性のことですけど──もしかして、わたしのことですか?」
男は肩をすくめてみせる。
「お望みならば、そういうことにしておきましょう」
「まあ。それって、聞き方によっては、ずいぶんひどいです」
ハルカはくすくす笑う。
それから、おもむろに訊いた。
「その美しき女性が──たとえば、ですよ? もしも殺人者だったとしたらどうします?」
男はニカッと笑った。
「それこそ私の求めるアドベンチャー&デンジャーです」
ハルカは面白がるように身を捻り、男に向いて足でばちゃばちゃ水面を蹴る。
「もしも、もしも、です。もしもその美しき女性がとんでもなく残忍な方法で──そうですね、肉切り包丁で父親と幼い息子を刺し殺し、バラバラに引き裂いた挙げ句氷の海の下に沈めたりする人間だったら、それでも甘いロマンスは発生しますか?」
男は胸を張る。
「なお面白い!」
「それじゃあ、それじゃあ」
ハルカは周囲をきょろきょろし、やおら服を全部脱いで裸になった。食い入る男をよそに川へ飛び込み、しばらく泳いでみせると首から上だけを川面から突き出し、男を見る。
「実はその女は自分を人魚だと思っていた哀れな魚類で、しかしその思いの強さゆえに捌かれ平らげられたのち、たまたまその食卓に居合わせた理想形の女の脳味噌を乗っ取って行動しているとしたら?」
男は一瞬混乱したようだが、
「イケる!」
親指を立てた。
ハルカは満足そうに笑った。
「ウソつけ!」
水筒を投げ付ける。
「わたしの話なんて全然信用してないくせに! 冒険だの危険だの言いながら所詮は下半身の赴くままに行動しているだけのくせに! 残念ながら人魚のわたしにはお前達人間の男が求めるような生殖器官はないんだよ! とっとと失せろ! さもなければお前も氷の下に沈めるぞ!」
男は悲鳴を上げながら逃げていった。
ハルカはそのまま身体から力を抜き、川面を仰向けに浮かび上がった。揺れる視界に、木漏れ日が瞬く。
よくもまああんなウソがポンポンと出てきたものだ。
生まれ持ってしまった自分の殺人衝動はかなりどうしようもなく、抑え付けられない。結婚して子供も生めば変われる、そう信じていたが、どうやら駄目だったらしい。夫と息子を刺したのはほとんど衝動的だ。しかもシャワールームで二人をみじんに解体するとき、息子はまだ生きていて、凄まじい絶叫を上げようとするので声帯をカットしてから事を行った。多分、四肢を切断して胸部を切開するあたりまで息子は生きていたと思う。自分はそのときぼろぼろ泣いていた。ごめんね、こんなお母さんでごめんね、何度もそう言っていたように思う。
夫はよく魚を釣ってきてくれた。働き口がなかなか見つからなかったので、いつもそうして食料を調達してきてくれた。死ぬまで優しい夫だった。そんな夫と息子を自分はこの手で惨殺した。汚らわしい自らの欲望に負けて。
自分は健常者である。時々猛烈な殺意に襲われる以外は至って普通の女である。だから『事』をする前に必ず理由を欲した。今回はそれがたまたま夫が死ぬ前に捌いた魚が印象に残っていたので、『人魚』になっただけである。
気が付くと、ハルカは全裸のままずいぶんと下流に流されてしまっていた。川幅が広くなっていて、森の緑の濃度も薄くなっている。このままでは人の目につくかもしれない。ハルカは慌てて身体に体重を掛け川底に立とうとして、足がつかなかった。
「わっ……」
バランスを崩しそうになって──
あ……。水が温かくなっています。どうやら、冬が終わったようです。川面を閉ざしていたあの分厚い氷はいつの間にか溶け消えていて、こうして自由に水中から顔を出すことが出来ます。
ずっと前に南へ上っていった仲間が戻ってきているかもしれません。もしも帰っているのなら会いたい、とわたしは思いました。尾びれで空を蹴り、水中へ潜り込み泳いで行きます。
……何だか、泳ぎがすごく遅くなったような気がします。春になって、身体があったまってしまったせいかもしれません。わたしは急ぐべく水を蹴り、尾びれを──
感触がおかしい。思ってわたしは自分の尾を見ると、そこにあったのは尾びれではなく人間の脚でした。
その途端、口から大量の泡が出ました。驚いて大量の水を飲んでしまい、わたしは荒く呼吸を──
呼吸が、出来ませんでした。
わたしは一体、どうなってしまったのでしょうか。
わたしは、人魚です。
なのにどうしてわたしは、人間なのでしょうか。
前方に仲間の背が見えました。わたしは手を伸ばして──
伸ば……して……。
視界が……。
待──って──。
呼、吸が
で
き
な
い